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絶対化と相対化

昨年末、NHKEテレの番組「こころの時代」を見ました。東海林勤牧師と徐京植さんとの興味深い対話でした。

徐京植さんのお兄さんの俊植さんは、獄中での読書をとおしてキリスト教における人間の相対化(聖書の神は絶対の存在なので、この神のもとではあらゆるこの世の価値観からときはなたれ、世を相対化して見ることができる)への理解を深められたそうです。このことを東海林先生が語られたとき、京植さんは質問されました。逆の場合、すなわち神の名のもとに人間が自己を絶対化することもあるのではないですか、と。

東海林先生は、それを免れるためには感動することであるという趣旨の答えを返されました。苦しみの中でたたかいを続けている人々と出会い、その言葉や人格に触れて感動すること。これが大切であると。
見事な答えだと思いました。

同時に、京植さんの問いも実に深く、鋭いものだと思いました。本来は絶対者なる神との出会いによって、人は自由にされ、解放されるはずですが、確かに逆のことが起こります。神の名によって自分のありかたを絶対化、もしくは正当化することです。これはナチス・ドイツにおいても起こりました。戦前の国家神道においても起こりました。
どうして起こるのか。なお自己のうちに残る罪のゆえです。この内なる罪、聖なる名による自己のエゴイズムの正当化の罪とも、わたしたちはたたかわなければならないのです。霊のたたかいです。

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