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2011年12月

 節電対策になるかと、「着る毛布」を買い求めました(特価で)。確かに暖かい。しかし着ていると、何か熊のようになります。私は今、一日のある時間帯には熊の風体をしています。

 

 見たい、という方は深夜か早朝にお訪ねください。

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ヤコブ

 日曜の午後の礼拝では、創世記を学んでいます。35章まできました。ヤコブの生涯をたどっているところです。

 あらためて思うのは、ヤコブがいかに計算高く、世知にたけた人であったかということです。「ヤコブ」とは他人のかかとをつかんで引き下ろす人、という意味です。彼はまさに自分のことしか考えなかった人でした。

 そのヤコブが「イスラエル」、すなわち神は勝利するという名に変えられました。人を蹴落とすことだけを考えていた人が、神の恵みに生かされて生きる人に変えられたのです。

 そこには、彼自身の能力や努力や修行といったものはみじんもありませんでした。神はご自身の祝福を担う者として、彼を選んでくださいました。彼の背に担われた神の祝福そのものが、彼を変えてくださったのです。

 それを知るとき、クリスマスは突発的に到来したのではないということがよくわかります。ヤコブはクリスマスの喜びを先取りしていたのです。
 そしてわたしたちは、ヤコブ(や旧約の時代の信仰者たち)よりも鮮やかに、神の祝福を知らされています。イエス・キリストによって。

 

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授業参観

 朝食時の、妻と次男(中2)との会話です。授業参観に行くと、とても静かなクラスもあればさほどでもないクラスもあるとの妻の発言に-

次男:「お母さんだって、手を振ってきたじゃないか」
妻: 「昔は手を振り返してくれたのに、最近は冷たいわね」

 どっちもどっちだと思います。

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仮面をはずして

 いつも正しくあらねばならない、まちがいをおかしてはならない-そのように教えられたり、自分自身もそう思い込んだり、ということがわたしたちにもあります。

 

 動機は真摯です。けれども正しくあろう、まちがってはいけないという思いが、いつしか自分をも他者をも追い詰めていくということにならないでしょうか。

 

 そのような窮屈さからわたしたちをときはなってくださるお方がおられます。失敗だらけでよい、堂々と恥をかいて生きていけばよい。なぜならわたしはありのままのあなたを愛し、受け入れ、守り、支えるからだ。他人の前で仮面をつける必要もない。わたしの愛の腕の中で自由に、喜んで生きよ。

 

 そのように言われるお方がこの世に来てくださった。それがクリスマスの祝福です。

 

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ゆっくりと、時間をかけて

 長い時間のあいだに積み重なった悲しみや苦しみは、それと同じくらいの、あるいはそれ以上の時間をかけつつ、ゆっくりと回復されていけばよいのだと思います。
 心が急くと、一刻も早くこの重荷を取り除きたいと思うと、それが「長い時間のあいだに積み重なった」ものであることを忘れてしまいますので。
 時間をかけて癒されていく過程で見えてくるものも、きっとあるのだと思います。

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愛国心

 愛国心とは(キリスト教信仰においてそもそも愛国心は成り立つのか、という問題はあるのですが)自分の国がいついかなるときにも正しいと思いこむことでもなければ、自分の国のありかたを否応なしに正当化することでもないと思います。

 

 たとえば内村鑑三(と、彼の系譜につらなるキリスト者たち)は、聖書-神の言葉に照らして日本のありかたを見る目を持っていました。永遠者のはかりによって、日本を相対化するまなざしをそなえていたわけです。

 

 国が正義と平和、公正を行っているかどうかを見守り、必要があればそのありかたをただすことこそ、真に国を愛するということだ-それをわきまえていたのだと思います。

 「愛」は「義」に裏打ちされたものである、ということです。

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矢沢宰『光る砂漠』

なつかしい本と再会することができました。矢沢宰詩集『光る砂漠』です。著者は中学の頃から腎臓結核を病み、入院生活を送り、しかしその中で詩を書き、キリストを求め、二十一歳で世を去ったひとです。私がこの本と出会ったのは、中学生のときであったと思います。三十数年ぶりの再会です(古書店をとおして)。
作品をひとつ。

 

秋は透明な
薄いむらさきだ
むらさきの秋は
騒がしいものを寄せつけない
体の透きとおる人をだけ
そぉっと淋しくなでるのだ
むらさきの中では
淋しがりやだが
強い死なない人だけが
首をたれて
落葉をハラハラと浴びるのだ

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闇と光

これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
  高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。
             (ルカによる福音書1章78、79節)

バプテスマのヨハネの父ザカリアの、神への賛歌の一部です。ここにうたわれていることの中身を問い続けることを生涯の仕事としたい-そう切に思います。端的に言って、この時代の暗闇とは何か。また、そこに光をともすとはどういうことなのか。あるいは、人間の生活における闇とは何か。そこに光がさしこむとはどういうことなのか。

はっきりとはわからない部分、なお余白の部分が(もちろんですが)あります。けれども、きっと神は少しずつ(わたしの残りの人生の時間のなかで)わからせてくださるでしょう。なぜなら、もうクリスマスは来ているのですから。すでに光なるお方の御手の支配のもとに身を置くことをゆるされているのですから。

神がわからせてくださる。真理をさとらせてくださる。そのことへの(信仰の)覚悟をも固めねばならないでしょう。

 
 

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余白と沈黙

巷に言葉が氾濫しています(話し言葉も、書き言葉も)。何か、これでもかこれでもかと言葉を押し詰めないと気が済まない、というふうに。

けれども、本当に生きた言葉にはつつましさがあると思います。あるいは、控え目な部分を残していると思います。

書き言葉における余白、話し言葉における沈黙のごときものです。

この部分が生きているかどうか、それが言葉の命をはかるはかりになるかもしれないと思います。

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枠にはめる

枠にはめよう、という動きがあります。何かに駆り立てられるように人や物事を管理しようとする動きが、政治の世界などにも見られます(職場にも、家庭にもあるでしょう)。それがどこから生じているのかを冷静に掘り下げる目をもつ必要があると思います。

(決してひとごとではなく、自分自身の中にもそうした心の動きがあることを痛感します…。)

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逃げること

逃げるのは卑怯だ、みっともないと言われることもありますが、あまりにつらい時には逃げてもよいのだと思います。ただ、逃げる先が大切です。逃れ場が確かであるなら、逃げることもまた幸いです。

主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
                     (詩編18編3節)

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