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キリスト教は排他的?(2)

 昨日書いたことについて、コメントを寄せてくださった方もありましたので(感謝いたします)、やはりもう一度書いてみます。

 「十戒」の第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)です。キリスト教信仰はこの戒めに忠実に立ちます。それゆえ、たとえばどの宗教、どの道を通っても(ちょうどどの登山口から登っても山頂にたどりつくように)真理に到達するとは考えません。いわゆる「宗教多元主義」の立場を取りません。その意味では、確かにキリスト教は「排他的」(この言葉の意味内容になお留保を持たせねば、と思うのですが)と言えるでしょう。ペトロも言うように、イエス・キリストのほかに救いなし(使徒4:12)なのです。イエス・キリストという「門」」を通って唯一の神を知ることこそが、救いと命の道なのです。
 
 ただ、この神を知る(「狭い門」(マタイ7:13)から入って!)ことによって、私自身はぱーっと広い世界に出ることができた、自由と解放を得たという経験をしています。「イエス・キリストの父なる神」は、同時に天地の造り主、世界の主なるお方です。このお方を知り、このお方のまなざしから世界を見るときに、世界のあらゆる領域が視野に入ってきます(ちょうど山の麓にいるときには自分のまわりの景色しか見えないのに、山頂に登れば三百六十度視界が開けるように)。
 キリスト者となるまでは、私の関心はただ私のまわりのことだけに限られていました。しかしキリスト者となったことで、確実に物事を考える視野がひろげられました。

 教会の第一のつとめは、もちろん伝道すること、キリストのよき知らせを伝えることです。しかし教会の働きはそれにとどまらず、神の造られた世界とそこに生きる人々(その人々がキリスト者かいなかにかかわらず)に仕える、この世界にキリストの愛と平和の秩序をうちたてるために、あらゆる差別や搾取、世の罪の力の支配とたたかうということもあるわけです。この世に生きるどんなに弱く、小さな命をも生かし、守り抜く-そのための責任も、教会にはゆだねられているのです(この面では宗教や思想を異にする人々との協力ということもあり得るでしょう)。
 この点では、キリスト教信仰は決して「排他的」ではなく、むしろ世界大のひろがりを持っていると言い得るのではないかと思います。

 蛇足のようですが、たとえば仏教や神道の中にも「排他的」(という言葉が果たして適切かどうか)な宗派や教団はあるようです(仏教では「日蓮宗不受不施派」、それから教派神道では「ほんみち」など-そこには「非寛容」というマイナス面だけではない、固有の歴史的意義も見受けられるのでは)。このことを考えると、また興味は尽きませんが、とりあえず今回はここまでに。

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