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2009年11月

愛猫との時間(2)

 猫のいたずらが過ぎると、家内は「お前ちょっとここへ座りなさい」と居住まいをたださせ、猫と差し向かいで説教を始めます。
 猫は一応神妙な顔をしていますが、その間ずっと長い尻尾はぷら~り、ぷら~りと(何かを物語るかのように)前後左右に揺れています。
 猫のほうが一枚上手です。

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愛猫との時間

 私があたふたと仕事をしているかたわらで、猫はずっと眠り続けています。たまに目を覚ますと、気持ち良さそうに伸びをし、あくびをし、満足そうに短くひと声鳴きます。
 うらやましさを通り越して、時におだやかならぬ思いにかられることもあります。そういう時には報復をこころみます。報復とは、ぐっすり寝入っているところを起こすことです。

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一枚の絵

 部屋に一枚の絵を掲げています。その絵を眺めながら、この絵にも最後の瞬間があったのだなあ、と思ったりしています。、画家が、これ以後もう新しい絵の具を置かない、もう何も手を加えない、そう決断した一瞬があったんだと。それ以後何年も、絵は静止したままであるわけで。
 そういう瞬間は、どのようにして来るのでしょうか。考えてみれば、部屋中がそういう瞬間で成り立っているわけで。絵に限らず、静物たちにもそういう瞬間があったわけで。

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国語的解答

 国語の試験問題では、ときに名(珍?)解答があらわれます。
 四字熟語の「□肉□食」を「焼肉定食」と答えるなどはもはや古典のおもむきがありますが、個人的には「腐っても」の次に「食える」(正解は「鯛」)と続けるものなどが好みです(最近の朝刊にありました)。
 学生時代に家庭教師をしていた子(小6)は、芥川龍之介の「杜子春」の冒頭の、杜子春と老人(仙人)との会話の場面について「登場人物は何人ですか」という問題に「中国人」と答えていました。これなども、思わず「○」をつけたくなりました。

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息子たちの会話

 以下は、中1の長男と小6の次男の会話です。

 次:(朝食時、家族全員に)「おととい、○○君に会ったよ」
 長:(それを聞いて)「ちょっと待った。おれには『きのう会った』と言ったじゃんか」
 次:「だから~、君にはきのう『きのう』と言ったけど、もう『きょう』になったから、『きのう』だったのが『おととい』に
    なったわけ。わかる?」
 長:「・・・」

 こうした会話がとりとめもなく続きます。聞いているうちに頭痛がしてきます。

 

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 霊によって

 今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書6章60~65節から。

 人はどのようにしてイエス・キリストというお方を知り、信じることができるのでしょうか。
 主イエスは「肉は何の役にも立たない」(63節)と仰せになります。「肉」とはここでは人間性をさし、とくに人間的なしかた、人間の流儀でご自身について知ろうとすることをさしています。つまり生まれながらの人間が自分のしかたで主イエスを知ろうとしても、それは何の役にも立たないということです。神の言葉をもっぱら人間理性によって知ろうとするかぎり、神の言葉は人間にとって謎であり続けるのです。

 主イエスは「命を与えるのは霊である」と仰せになります。イエス・キリストというお方を知るためには、聖霊の導きを仰がねばならないのです。キリストのみ霊に導かれつつ、キリストのみ言葉を聞く。それによって人は命を得るのです。
 これがキリストを知る道筋です。この道筋を神はすでにわたしたちのために開いてくださっており、備えてくださっています。この道筋に従って主イエスを求めるなら、だれもが分けへだてなく主イエスを知り、信じることができるのです。主イエスを愛し、主イエスから来る喜びにあずかり、主イエスにある慰めと平安を受け取ることができるのです。そのようにして、霊によってわたしたちは文字通り主イエスとひとつなる命を生きるのです。

「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(新約聖書ヨハネによる福音書6:63)
 

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キリスト教は排他的?(2)

 昨日書いたことについて、コメントを寄せてくださった方もありましたので(感謝いたします)、やはりもう一度書いてみます。

 「十戒」の第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20:3)です。キリスト教信仰はこの戒めに忠実に立ちます。それゆえ、たとえばどの宗教、どの道を通っても(ちょうどどの登山口から登っても山頂にたどりつくように)真理に到達するとは考えません。いわゆる「宗教多元主義」の立場を取りません。その意味では、確かにキリスト教は「排他的」(この言葉の意味内容になお留保を持たせねば、と思うのですが)と言えるでしょう。ペトロも言うように、イエス・キリストのほかに救いなし(使徒4:12)なのです。イエス・キリストという「門」」を通って唯一の神を知ることこそが、救いと命の道なのです。
 
 ただ、この神を知る(「狭い門」(マタイ7:13)から入って!)ことによって、私自身はぱーっと広い世界に出ることができた、自由と解放を得たという経験をしています。「イエス・キリストの父なる神」は、同時に天地の造り主、世界の主なるお方です。このお方を知り、このお方のまなざしから世界を見るときに、世界のあらゆる領域が視野に入ってきます(ちょうど山の麓にいるときには自分のまわりの景色しか見えないのに、山頂に登れば三百六十度視界が開けるように)。
 キリスト者となるまでは、私の関心はただ私のまわりのことだけに限られていました。しかしキリスト者となったことで、確実に物事を考える視野がひろげられました。

 教会の第一のつとめは、もちろん伝道すること、キリストのよき知らせを伝えることです。しかし教会の働きはそれにとどまらず、神の造られた世界とそこに生きる人々(その人々がキリスト者かいなかにかかわらず)に仕える、この世界にキリストの愛と平和の秩序をうちたてるために、あらゆる差別や搾取、世の罪の力の支配とたたかうということもあるわけです。この世に生きるどんなに弱く、小さな命をも生かし、守り抜く-そのための責任も、教会にはゆだねられているのです(この面では宗教や思想を異にする人々との協力ということもあり得るでしょう)。
 この点では、キリスト教信仰は決して「排他的」ではなく、むしろ世界大のひろがりを持っていると言い得るのではないかと思います。

 蛇足のようですが、たとえば仏教や神道の中にも「排他的」(という言葉が果たして適切かどうか)な宗派や教団はあるようです(仏教では「日蓮宗不受不施派」、それから教派神道では「ほんみち」など-そこには「非寛容」というマイナス面だけではない、固有の歴史的意義も見受けられるのでは)。このことを考えると、また興味は尽きませんが、とりあえず今回はここまでに。

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キリスト教は排他的?

 某政党の指導的立場にある方が、キリスト教は排他的である旨の発言をなさったとか。かなり以前にも、さる政治家の方がよく似たことをおっしゃったように記憶しています。いずれにせよ、唯一の神を信じる信仰イコール排他的、多神教的宗教イコール寛容というのはあまりに短絡的な発想です。

 このことについてレスポンスを始めると、おそらく相当長くなると思いますので、ふたつのことだけ。ひとつは、キリスト教は決して排他的ではないということ(「排他的」という言葉をどのように規定するかは別として)。もうひとつは、宗教は(あらゆる宗教がそうですが)国家や政治に利用されるときにこそ、最も排他的になるのだということです(これは歴史の教訓です)。

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『ノラや』

 朝日新聞朝刊の「百年読書会」の11月の選定図書は『ノラや』(内田百閒著)です。
 失踪した愛猫の帰りを待ちわびつつ、毎日泣き暮らす百閒先生の姿は、哀切きわまるものです。
 でも、たとえば「ノラ」の尻尾を持って、逆さ吊りのまま秤に乗せて目方をはかろうとする、などといったこともなさっていたようです。そんなことをするから逃げちゃうんじゃないか、と思わなくもありません。

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新しい家族

 しばらくブログをお休みしていましたが、今日から再開します。以前は若葉のテンプレートだったのですね・・・ただちに変えました。

 先月の半ば、我が家に小さな変化がありました。新しい家族を迎えたのです。生後三カ月ほどの子猫です。
 フランスの詩人フランシス・ジャムにあやかって「ジャム」と名づけたのですが、名前を聞いた方々からは、一様に「おいしそうな名前ですね」と言われます・・・。

 日曜日は教会の子供たちにさわりまくられ、いじり回され、夕方にはぐったりしています(日曜日は安息日のはずなのに・・・)。でも、とても元気でお茶目な猫で、もうすっかり我が家になじんでいます。

 全国で、一年間に殺処分を受ける犬や猫は三十万匹と聞いたことがあります。三十万匹のうちの一匹。比較になりませんが、かけがえのない命です。

 

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