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奴隷と自由

パウロというキリスト者は、自己紹介をするときに、しばしば「(自分は)キリスト・イエスの僕(である)」という表現を用いました。

「僕」とは「奴隷」ということです。世の中に奴隷ほどみじめな境遇はない、一般的にはそのように考えられているでしょう。

けれどもパウロは、自分のことを「僕」と呼ぶたびに、躍り上がるような喜びにあふれていたのです。彼にとっては奴隷であることが喜びであったのです。

なぜなら彼はほかの誰の奴隷でもなく、「キリスト・イエスの」奴隷であったからです。

奴隷における問題は、主人はだれかということに尽きます。横暴な独裁者が主人であったなら、奴隷には自由も喜びも希望もないでしょう。
しかしキリストを主人とする奴隷には、自由と喜びがあります。なぜならキリストは自由そのものであられるからです。
キリストの奴隷とされた者たちにあっては、主人に縛られれば縛られるほどに自由を得ていく、まことの自由のもとにときはなたれるという逆説が成り立つのです。キリストに縛られているということは、この世の何者からも自由にされているということを意味しているのです。キリストはわたしたちを支配するあらゆる力の支配から、わたしたちを自由にしてくださったのです。

「真理はあなたたちを自由にする」(新約聖書ヨハネによる福音書8:32)

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