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2009年7月

最も大切なこと

 使徒パウロは、あるときギリシアのアテネで伝道説教をしていました。新しもの好きで、新しい話に目がない(日本人と似ていますね)ギリシア人たちは、パウロの話を聞こうと大勢集まってきました。
 ところが、パウロがキリストの復活について話し始めると、ある人はあざ笑い、ある人はまた今度聞こうと言って、皆その場からいなくなってしまいました。

 その現象だけ見るなら、パウロの伝道は失敗だったということになるでしょう。けれどもパウロにとって、キリストの復活は「最も大切なこと」(Ⅰコリント15:3)であったのです。それを語らなければ、キリスト教信仰について何も語ったことにはならないというほどに、中心的なことであったのです。

 もしキリストが復活しなかったのなら、わたしたちが信仰をもって生きることは無駄であり、福音を宣教することも無駄である-そうパウロは語っています。つまりキリスト教信仰は、人々があざ笑うような事柄を土台とし、命としているのです。
 なぜなら、そこにこそ永遠の命、永遠の真理があるからです。

 それはどういうことなのか。その答えを見出すところに、キリスト教信仰の醍醐味があります。その答えに到達するために、わたしたちは聖書に聞き続けるのです。

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(新約聖書コリントの信徒への手紙一15:14)

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永遠者のまなざし

 地上の事柄をもっぱら地上的な目で見ているだけでは、そこから抜け出ることはできません。地上的な事柄には限りがあり、人間にも限界があるからです。
 永遠を見るまなざしをもって地上の事柄を見ることによって、はじめて地上的限界をのりこえることができます。

 永遠の世界と地上の(有限な)世界とは切り離されていて、たがいにかかわりあうことはないというのではありません。永遠の次元から地上の人生をはかることによって、真に自由な人生の基盤を据えることができるのです。あるいは永遠を見るまなざしをもって地上の歴史を見ることによって、この地上を正しく生き抜くことができるのです。

  この世の政治が宗教を思いのままに利用しようとするときには、その宗教から永遠性を奪い去って骨抜きにする、すなわち宗教を「俗物」にするというのが常でした。永遠性が失われるとき、宗教の命も失われるのです。

 では、どうすれば永遠を見るまなざしを得ることができるのか。永遠者の言葉、すなわち聖書に聞き続け、養われ続けることです。
 

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床を担いで

 今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書5章1~9(a)節から。

 主イエスのみ言葉には力があります。主イエスが「起き上がりなさい」と仰せになると、38年間も病気で身動きできなかった人がすぐに起き上がり、床を担いで歩きだしました。

 「床」はそれまで彼を縛りつけていたものであり、彼の人生の苦しみの象徴です。しかし、今彼はそれを担いでいるのです。つまり彼は今やそれから解放され、それに勝利しているのです。

 わたしたちの人生には、なおわたしたちを束縛するものがあり、重荷があり、壁のように立ちはだかる厳しい現実があります。しかし逆にそれを背負って歩む歩みを授けられるのです。
 主イエスが「歩きなさい」と仰せになるのは、ただ肉体の足で歩けということにはとどまりません。罪赦され、永遠の命の祝福に招き入れられた新しい人間として、神の道をしっかりと踏みしめて歩けということです。それは古い罪の人を支配していたこの世と人間のあらゆる支配をキリストの恵みの力によって打ち破り、克服して歩む歩みなのです。

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」(新約聖書ヨハネによる福音書5:8~9(a))

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 滋賀県にある「止揚学園」からおふたりの職員方が、今年も教会を訪ねてくださいました。知能に重い障害を持つ方々のお話をうかがうたびに、その命の豊かさに深く感銘し、教えられます。

 今日の語らいの中から、伝道にまつわるお話を紹介します。止揚学園で伝道のことが話題にのぼった時、聞いておられたひとりの方が「まわりを明るく照らすことや」と言われたそうです。

 職員さんは「伝道」と「電燈」を聞き違えたのだと思いますが」とおっしゃったのですが、これはまったく正解です。伝道とは、キリストのみ言葉によってこの世を明るく照らすことです。キリストは世を照らす光として来たりたもうたのですから。

 止揚学園で生活しておられるすべての方々も、キリストの命の光の証し人として、この世に光をともしておられます。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(新約聖書ヨハネによる福音書1:9)

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日食

 午前の祈り会を終えて、教会の玄関を出て、皆で空を見上げていました。
 三日月のような太陽。はっきり、鮮やかに見えました。

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民主主義

 衆議院が解散され、いよいよ選挙が行われます。小選挙区制がそれなりに定着し、この国の政治は二大政党の競い合いという枠組みのもとに推移していくことになるのでしょうか。

 亡くなった加藤周一氏は、多数決ということと共に少数意見の尊重ということがなければ、本物の民主主義とは言えないとおっしゃっています。

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歩く(2)

 歩くことにはもうひとつ、大切な目的があります。ほかでもありません。「中性脂肪の撃退」です!以前はそんなことは考えたこともありませんでした。そういう年齢に達したということでしょう。
 家内は「私の場合、お腹まわりに多少脂肪があったほうが精神的に落ち着く」と言って、協力してくれません。孤独なたたかいが続きます。

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歩く

 一日あたり30分を目当てに歩くように努めています。歩きながらものを考えます。次の日曜日の説教で語るべき聖書の言葉が頭をめぐっていることもあります。このブログに何を書こうかと思いめぐらせていることも、たまにはあります。

 詩人の石原吉郎氏は、職場の昼休みに「小型カセットコーダー、小型ラジオ、双眼鏡、ノート、原稿用紙、夏みかん一個」に書物一冊をたずさえて、最低一時間半の散歩に出ることを日課とされていたとのことです。私のはそんなに本格的な散歩ではありませんが、それなりによい気分転換にはなります。

 自宅(教会)から名古屋駅まで、およそ30数分です。名古屋駅まで出るときには、行きは交通機関を用い、帰りは歩くということを時々します。

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同労者

 牧師をしていると、時には厳しいことを(しかもかなり長い時間にわたって)考え続けなければならないこともあります。そうした時に、先輩や同世代の牧師先生たちとの対話によって慰められたり、励まされたりということがしばしばあります。

 今日もそういうことがありました。長く親しくさせていただいている先輩の先生からの一本の電話に慰められました。

 先生たちは、もちろんこちらがどのような状況にあるのかについて必ずしもご存じではなく、いつもと変わりなく語りかけられることが多いのですが、時によってはそうした言葉が心に深くしみ入るのです。

 よき同労者を与えられていることは、大きな恵みです。

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み言葉の力

 今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書4章43~54節から。

 その神がご利益のある神かどうかを見定めて、そして信じるというのが信仰というものだ-そういう理解が世間一般にはあるようです。また、この神にはご利益があるといって人々を誘う宗教のことも耳にします。けれどもそれは人の側で神を値踏みしているのです。神と人との関係は、決して損得の関係ではないはずです。

 ほんとうの信仰とは(「しるし」を見て信じる信仰ではなく)神の言葉を信じる信仰です。カファルナウムにいたひとりの父親は、一人息子が瀕死の病にあったのですが、「あなたの息子は生きる」との主イエスのみ言葉をそのとおりになると信じて、カファルナウムに帰っていきました。すると息子はすでに癒されていました。息子がよくなったのは主イエスが「あなたの息子は生きる」と仰せになった、まさにその時刻であったのです。神の言葉には人に命を与える力があるのです。

 福音書においては病の癒しは決して「ご利益」ではありません。主イエスによる病の癒しは、たんに肉体の病が癒されるということにはとどまりません。
 それは人が神の恵みによって命の中に呼び戻されたこと、それゆえにもはや罪の力のもとにも、死の力のもとにもないことを示すしるしです。それが、主イエスが「あなたは生きる」と仰せになることのほんとうの意味なのです。そして主イエスはわたしたちにそのような命を与えてくださるために、十字架の上でわたしたちの罪を贖い、三日目に復活したもうたのです。

 主イエスはわたしたちにも「あなたは生きる」と仰せになります。このみ言葉を信じるなら、わたしたちにも死に勝利する命が与えられます。命のみ言葉の力によって。

「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」(新約聖書ヨハネによる福音書4:50)

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人生の軸

 国政選挙を前に、政権与党が混乱とほころびを露呈しているようです。

 時に世の中はあちらへこちらへとぶれ、時代も歴史も揺れ動きます(何が正しいか、正しくないかということも、時代状況によって、また時の国家次第でぶれるのですね)。いついかなる時にもぶれることも動くこともない、しっかりとした人生の軸を持ちたいと思います。人生は一度きりであるゆえに、よけいにそのように願われます。

 旧約聖書の時代の預言者(神の民に、神の言葉をとりついだ人)は、民が我が世の春を謳歌していたときに、ただひとり悲しみの歌を奏で、民があわてふためいていたときに、ただひとり泰然としていました。

 預言者は神の代理者ですから、預言者のそのような姿は、神のまなざしとこの世の目との間にはずれがあることを示しています。同時に、預言者のまなざしは時代や歴史がどのように揺れ動こうとも、決してぶれることはなかったのです。

 

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生まれて初めての味

 午前の仕事を終え、昼前から、久しぶりに家内と二時間ほど外出しました。東片端の本屋さんに本当に久しぶりに立ち寄り、前々から気になっていた本を購入してひと安心。お昼は本屋さんの近くのカレーのお店(地下にもぐる)へ。

 木彫りの人形が置かれていたり、タゴールの書物があったり。スピーカーからは鳥の声。存在感のあるお店でした。
 パイナップルのカレーを注文しました。パイナップルが豊富に入っていて、それでいてちゃんとしたカレーになっています。生まれて初めての味でした。

 こうしたほんのひとときが、よい息抜きの時間になります(先週はあわただしい一週間でしたので、よけいに)。午後の仕事をかたづけて、夕方からは超教派の牧師会で小さな研究発表をします。

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聖書はわかる

 今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書4章27~42節から(その2回目)。

 サマリアの女から主イエスのことを聞いたサマリア人たちは、わたしたちのもとにとどまって、み言葉を教えてくださいと主イエスに願いました。主イエスはその願いを聞き入れられて、なお二日間サマリアの地に滞在され、み言葉を説き明かされました。
 主イエスを信じたサマリア人たちは、最初に自分たちに主イエスのことを伝えてくれた女に言いました-わたしたちが主イエスを信じるのは、もうあなたが話してくれたからではなく、自分で聞いて、このお方こそ救い主であることがわかったからです。

 自分で聞いて主イエスこそ救い主であられることがわかったということと、自分たちのもとにとどまってくださいと主イエスに願ったこととは、深く結び合っています。主イエスのもとにとどまり、み言葉を聞き続けるなら、必ず聖書はわかるのです。子どもであってもわかるのです。主イエスが、ご自身のみ言葉をわからせてくださるからです。

 イエス・キリストを信じるということは「盲信」とはことなります。わけのわからないままやみくもに信じるなら何らかのおかげがいただけるというのではありません。自分でみ言葉を聞き、み言葉が真実であるかどうかを調べて、そして信仰の確信が与えられていくのです。聖書のみ言葉にしっかりと立った、自立した責任のある人生が、そうしたいとなみの中で築かれていくのです。

「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(新約聖書ヨハネによる福音書4:42)

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奴隷と自由

パウロというキリスト者は、自己紹介をするときに、しばしば「(自分は)キリスト・イエスの僕(である)」という表現を用いました。

「僕」とは「奴隷」ということです。世の中に奴隷ほどみじめな境遇はない、一般的にはそのように考えられているでしょう。

けれどもパウロは、自分のことを「僕」と呼ぶたびに、躍り上がるような喜びにあふれていたのです。彼にとっては奴隷であることが喜びであったのです。

なぜなら彼はほかの誰の奴隷でもなく、「キリスト・イエスの」奴隷であったからです。

奴隷における問題は、主人はだれかということに尽きます。横暴な独裁者が主人であったなら、奴隷には自由も喜びも希望もないでしょう。
しかしキリストを主人とする奴隷には、自由と喜びがあります。なぜならキリストは自由そのものであられるからです。
キリストの奴隷とされた者たちにあっては、主人に縛られれば縛られるほどに自由を得ていく、まことの自由のもとにときはなたれるという逆説が成り立つのです。キリストに縛られているということは、この世の何者からも自由にされているということを意味しているのです。キリストはわたしたちを支配するあらゆる力の支配から、わたしたちを自由にしてくださったのです。

「真理はあなたたちを自由にする」(新約聖書ヨハネによる福音書8:32)

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食物

一週間ほどごぶさたいたしました。さぼっていたというわけではなく、テクニカルな問題で自分のブログに入れない(悶々とした?)一週間であったのです。今日、教会の方に見ていただいて、ともかく再び入れるようになりました。ただ、今週も会議や出張の重なる一週間で、やはりあまり書けないと思います。

今日の礼拝説教は、ヨハネによる福音書4章27~42節から(その一回目)。

主イエスのために町に食べ物を買いに行っていた弟子たちは、戻ってきて主イエスにそれを差し出し、「ラビ、食事をどうぞ」と言いました。主イエスは弟子たちに仰せになりました-「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」

弟子たちは主イエスのみ言葉を聞いて思いました。ほかのだれかが主イエスのために、別の食べ物を調達してきたのだろうか。

主イエスの仰せになった食べ物とは、人を永遠に生かす、永遠に朽ちることのない食物のことであったのです。地上の体、肉体を養う食物だけが食物ではありません。人を真に生かす霊の糧があるのです。命のパンがあるのです。それは主イエスのみ言葉であり、主イエスご自身です。

「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(新約聖書ヨハネによる福音書4:32)

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