« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

信仰とは

夕暮れの公園で、よちよち歩きの幼子が、父親のいる方向によちよち歩いて行って、けれども途中で「もう歩けない」と座り込んでしまった。すると父親のほうが笑みを浮かべて幼子に近づき、その両手に抱き上げた。そういうものだと思います(かなり昔読んだ本に書いてあったお話です)。

明日は日曜日です。教会にお出かけください。魂の父にお会いするために。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

詩とは

葉緑素が、太陽を捕えるようなものだとある詩人はおっしゃっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人とキリスト教(3)

作家の遠藤周作氏は、キリスト教という「洋服」を自分に合う「和服」に裁断し、寸法を直してつくりかえようとしました。その試みの意義深いものであることは認めつつも、キリストの真理と命が人間の側を新しくつくりかえる(人間がキリストによって、新しくつくりかえられる)という局面を重んじたいのです。人がキリストによって新しくされることは、憎しみが愛に、争いが平和に、死が命に変えられることです。それは実に幸いなことなのです。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(新約聖書コリントの信徒への手紙二5:17)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人とキリスト教(2)

多くの日本人が「わたしは無宗教で・・・」と言います。が、ほんとうにそうなのでしょうか。

『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利磨著、ちくま新書)という本は、確かに日本人はキリスト教やイスラム教のようにはっきりした教え(教義)をもち、経典をもつ宗教には抵抗があるようだが、一方でお墓や位牌、を大事にし、お盆やお彼岸の行事や焼香も大事にする。その点ではあながち無宗教とは言い切れないのではないか、むしろきわめて宗教的な一面をもつのではないか-そう問うています。

もしかしたら、日本人は人はなぜ生きるのか、死んだらどうなるのか、真理とは何かというような、人生の根本問題の前に立たされるのをきらうのかもしれません。けれども真理を知ることによって、はじめて腰のすわった、確かな人生を生きることができるのではないかと思うのです。それを伝えることがキリスト教のつとめだと思います。

人はなぜ生まれるのか。何のために生きるのか。死んだらどうなるのか。これが人生における三大問題です。その答えは、すべて聖書の中にあります。

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(新約聖書ヨハネによる福音書14章6節)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人とキリスト教

おとといの主日は少し遠出をし、静岡県の、富士山を望む市にある教会で説教の奉仕をさせていただきました。初めて伺った教会でしたが、皆さんあたたかく迎えてくださって、豊かな主の日を過ごすことができました。

昼食をいただいた後で、しばらくの語らいの時を与えられたのですが、何人もの方々が家庭で(自分が)ただひとりキリスト者であることの悩みやたたかい、お墓や焼香のこと、子どもたちへの信仰継承のことなどについて語られました。これらは日本の教会と信徒たちが例外なく直面している(とくに地方の教会では-考えてみれば、富士山そのものも信仰の対象なのですね)問題であると思います。そして教会がそのような悩みや苦しみやたたかいを分け持っているなら、それはまさにその教会に信仰が息づいていることの証ではないか-そう思わされました。

日本人が日本の精神風土、宗教的環境のただ中でキリスト教信仰を持ちつつ生きていくのは、それ自身たいへんなことです。ある牧師先生は、それは荒れ野にひとりたたずむようなものだと言っておられましたが、ほんとうにそう思います。私自身も、育った家庭の中でただひとりのキリスト者でした。日本人のキリスト教受容の問題を、これまでにも否応なく考えさせられてきました。日本人がキリスト者となっていくのは、一生の仕事です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

走り書き

電車の時刻を調べるために、駅に備え付けの時刻表を開いたら、走り書きのメモが一枚はさまっていました。

追い詰められた、切羽詰まった心で電車に乗り込んだであろうことがおしはかられる、緊迫した内容の走り書きでした。

メモを残した人のことが気になりましたが、もちろん駅にはおびただしい人々が行き交っており、見分けがつくはずもありません。

こういう時には、皆が同じ顔に見えるものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生者と死者

今朝の朝刊のコラムに引かれていた、ハンセン病詩人の塔和子さんの詩の一節が目にとまりました-「生と同時に/死を産みおとしたことに気付かないで/からになった母体は/満足げに離別を見る」

人が生まれるとき、死という手形も振り出される、人は生とともに死にも領有されている、そうコラムニストは続けています。

大病を克服して、九十歳近くで亡くなるまで旺盛に活躍されたある社会学者の方が、最晩年にこのように語っておられました-自分の身の中に死者と生者がともにあって、たがいにささやき合っている。それを自分は耳をすませて聞いている。

生まれてから死ぬまで、生者と死者とはせめぎ合うのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

通過する言語(2)

過去に一人だけ、「なんちゃって~」とモノローグしつつ通過していった人がありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

通過する言語

道を歩いていて、向こう側から二人乃至三人の人が会話しながら通り過ぎていくということがあります。そうした時、通りすがりに聞いた何気ない一言がこちらの耳に残るということもあります。さらに、前に聞いたのと同じ言葉を、偶然別の人から聞くということもあります。

私の場合、「・・・だけでもありがたいと思わないと・・・」という言葉を、通過していく会話者から複数回聞きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

想像力

生まれつき目の不自由なピアニストの方が大きなコンクールで優勝されたことが話題となっています。ほんとうに喜ばしいことと思います。

このことと直接的なかかわりはないのですが、以前目の不自由なイラストレーターの方が、ラジオのインタビューに答えておられたことを思い起こしました。インタビューアーが、目の不自由なことはお仕事に差しさわりませんか、と尋ねたのであったと思いますが、その方はこう答えられました-人間の想像力は現実の映像にまさります。映像は型にはまったイメージを強いますね。しかし私は目が見えなくなってから、かえって束縛を解かれて自由になった気がします。極彩色の夢も見るようになりました。

このようにもおっしゃっていました-朝は家内と散歩をしたり、ふたりで買い物をしたり、公園のベンチに座って過ごしたりします。そういうひとときがとても好きです。家内は・・・田舎の娘です。

「家内」というのは、雌の盲導犬のことであったのです。

プロテスタント教会は、礼拝堂に聖像も聖画も置きません。絵や像があったほうがわかりやすいということがあるかもしれませんが、永遠であり無限である神さまをそのようにして枠づけすることはふさわしくないと考えるからです(たぶん)。神さまが人間と出会い、交わりを持たれるために用いられる手だては言葉ですから、私たちは言葉(聖書と、そのとき明かしである説教)に集中します。そして神さまを「見る」祝福を、(み言葉とともに働かれる)聖霊の豊かな導きにゆだねます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

魂の医者

昨日(14日)の礼拝説教は、ヨハネによる福音書4章16~26節から(その一回目)。

主イエスは、わたしたちの人生の核心にある問題にずばりと切り込んで来られるお方です。よい腕をもつ医者が隠れていた病をしっかり見つけ出して治すように、主イエスもわたしたちを苦しめる魂の病を根本的に癒してくださいます。

作家の三浦綾子さんは、肉体の病が発見されなければ気づかないうちに進行するように、魂の病もそのままにしておいてはならない。癒していただかなければすこやかな人生にならない。そのことに気付かされて、病床で洗礼を受ける決心をなさったそうです。主イエスはわたしたちの罪の身代わりとなって十字架に死んでくださいました。この恵みを信じ受け入れるなら、わたしたちの罪はすべてゆるされます。わたしたちはすこやかさを取り戻します。命の水-それは主イエスによる罪のゆるしの恵みです。

昨日は「花の日」でした。日曜学校の子どもたちや先生方が、花をたずさえて近所の消防署や交番を訪問し、日頃のお働きに感謝しました。ただ、消防署では毎年サービスをしてくださって、子どもたちをはしご車に乗せてくださいます。子どもたちにとっては「花の日」と言うより「はしご車の日」かもしれません。

おとといわたしたちの教会を会場として結婚式が行われましたので、教会が花々で彩られ、文字通りの「花の日」となりました。我が家もおすそわけにあずかりました。食卓のコップの水に花一輪。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自己認識

昨日の夕刻散歩をしていたら、路地を入ったある民家の玄関先に植木鉢がいくつか並んでいて、そこに小さな紙製の立札が立っていました。立札には手書きでこう書かれていました。「植木ドロボーへ/天を知る/地を知る/おのれを知る」

この「おのれを知る」の一言に、わたしの思いはおのずから傾いていったのです。おのれを知ることは重要なことである。しかし、人は一体どこでおのれを知ることができるのだろうか。自分のことは自分がいちばんよく知っているとは言い切れないところがあるのではないだろうか。案外人は自分自身のことを知らないのではないだろうか。

ジャン・カルヴァンという人は、人は神の前に立つ時にこそ本当に自分を知ることができると語っています。造り主の前でこそ、人は(自分を含めた)人間存在の真相を、その深みまで知るに至るということです。そこでこそ人生を生きる軸がしっかり定まってくるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

梅雨入り

名古屋は昨日から梅雨に入ったとのこと。しかし交差点をひっきりなしに行きかう人々の中にも、明るい原色を身にまとう人が目立つようになりました。

色とりどりの帽子や衣服の間からのぞく皮膚の色は、みな一様に肌色です。けれども人々がその奥に隠し持っている色は、何色なのだろう。

どんな絵の具にも出せない色なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

陶器師と陶器(2)

ただし、人間に対する神の主権というのは、独裁者、暴君のようにしてふるわれるというのではありません。神ががば、とひれ伏さざるを得ないようなお方であられるからこそ、神の愛と恵みと自由とが有無を言わさぬ、不可抗的なしかたで人間に注がれるのだということです。

陶器師の手の中で、陶器は安らかです。

「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう/わたしはあなたたちを造った/わたしが担い、背負い、救い出す」(旧約聖書イザヤ書46:4)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

陶器師と陶器

小さな動物の置物を、ころころともてあそぶということがあります。動物の置物は、手の中でどのようにでもなります。座らせることもできれば、寝転がらせることもできます。でんぐりがえしさせることもできます。

この「動物の置物」のような神々が、巷に満ち満ちているのではないでしょうか。こうした神々のことを聖書では「偶像」と呼びます。それは人間がみずからこしらえた神々です。人間がこしらえたからこそ、人間の自由になり得るわけです。でも、神さまなら人間が無条件にがば、とひれ伏すような方であってほしいものです。人間の手で操られるばかりの神ならば、いかにも頼りないと言わざるを得ません。

聖書は、神と人との関係を陶器師(陶工)と陶器になぞらえています。このたとえによって聖書が言いたいのは、被造物たる人間に対する造り主なる神の絶対的な主権ということです。

「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(新約聖書ローマの信徒への手紙9章20節)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

主イエスにつながる

今日(6月7日)の礼拝説教は、ヨハネによる福音書4章1~15節から。

主イエスは永遠の命の水の源です。主イエスにつながって生きる人は、流れのほとりに植えられた木(詩篇1編3節)のようにつねにたっぷりとした、豊かな命の水を吸い上げることができますから、渇くことがありません。豊かに実を実らせることができます。

人間にとって最も大切なこと、なくてはならないただひとつのことは、主イエスをとおして命の神につながって生きることです。神につながっていなければ、わたしたちはやがてまた渇きます。何をしても、どこから求めても、また渇きます。しかし命の神にしっかりつながっているなら、永遠に渇くことはないのです。

わたしたちは人に愛されるだけではなく、人を愛したいと願います。受けるばかりでなく与える存在になりたいと願います。しかし主イエスは言われます-あなたがそのことを願うなら、まずわたしから受けなさい。わたしに求めなさい。わたしをとおして父なる神につながっていなさい。

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」(新約聖書ヨハネによる福音書4章13~15節)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

軛(くびき)

軛(くびき)という言葉は、現代では耳慣れない言葉かもしれません。二頭立ての馬車を引くために用いた木製の道具です。馬車を引く二頭の馬の肩に固定して、うまく荷を引っ張ることができるようにしました。

馬の引く荷物は、人生の重荷の象徴です。生きていればさまざまな重荷が背中にかかってくる。その重荷を、もちろんわたしたちは自分でも負うのですが、一緒に背負ってくださるお方があるのです。わたしたちとともに軛につながれてくださるお方があるのです。それがイエス・キリストです。

キリストは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と仰せになります。キリストがわたしたちとともに、わたしたちのかわりに背負ってくださるので、わたしたちの荷は軽くなるのです。ひと心地つくことができるのです。わたしはあなたの重荷を背負うよ、そうおっしゃってくださるお方を見出すことのできた幸いを、私自身も深くかみしめています。

明日は日曜です。どうぞ教会にお出かけください。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(新約聖書マタイによる福音書11章28節)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どものかなしさ

うちの子どもたちはテレビが好きで、テレビアニメも好きです。夕方からの時間は彼らの天下で、私は日々チャンネル権を放棄しています。

お話は彼らがもっと小さかった頃にさかのぼるのですが、当時から彼らは自分たちでスイッチを押して、好きな番組を探し当てていました。けれども子どものことですから、すぐにお目当てのチャンネルに行けるわけではなく、彼らの指はたたらを踏むので、いくつかの局をまたいでたどりつくというのが常でした。

イラク戦争当時、そのいくつかの局のニュースで、連日戦場の様子がリアルに映し出されていました。燃え盛る炎、瓦礫の山、銃をかまえている兵士、泣き叫んでいる子供たち、そうした光景です。

彼らは無言でスイッチを押していましたが、それらの映像や音声は彼らの目や耳(や心)にも刻印されていたはずです。

子どもであることのかなしさを思います。大人たちとちがって、自分の好まないものをさえぎるすべを知らないかなしさです。どんな情報も、無防備にたたずむ彼らはただ受け入れるほかにない。見たくないものには目を閉じればよいのだということ、自分の両手が自分の耳をふさぐためにも使えるのだということ、そうしたことに気づくまでには時間がかかるのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

命の水

教会の方から一本のビデオをお借りして、観ました。昨秋放映されたテレビ番組の録画です。アメリカの軍隊がかかえている大きな問題について取り上げたものです。それはイラク等から帰還した兵士たちの心の病の問題です。戦場で人を殺した兵士たちが、その記憶にさいなまれてPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかるというものです。

人間は神のかたちに似せて造られており、人間には「殺してはならない」という戒めが刻まれています。しかし軍隊とは人を殺す人間を生み出す場所です。その矛盾に耐えきれる人はひとりもないのだと思います。

心を病んだ兵士たちは、戦場での記憶から逃れるために、たとえばアルコールに頼ります。しかしアルコールは一時の気の紛れとはなるにせよ、彼らの心を根本的に癒すことはできません。人は溜め池のような水ではなく、こんこんと流れて決して涸れることのない命の水によってしか、癒されることはありません。

「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(新約聖書ヨハネによる福音書4:14)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

秒針

私がふだん仕事をしている部屋の壁掛け時計の秒針は、一秒打つごとに全身をふるわせるようにして打ちます。音もがっ、がっという感じの音です。それは私がその部屋にいるときも、いないときも同じです。人がいようといまいと、決して気を抜くことはありません。

ところが私がその部屋にいるとき、間近にその時計があるにもかかわらず、ほとんどその秒針の音に気づいていません。まったく聞こえていないと言ってもよいほどです。不思議です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »