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2009年5月

ペンテコステ

今日は世界中の教会で、ペンテコステ(聖霊降臨日)が祝われました。わたしたちの名古屋教会でもペンテコステ礼拝をささげました。

聖霊が来て下さったとは、キリストが来てくださったということです。キリストのみ霊よ、わたしたちはキリストの命、キリストの愛と自由に生かされることを喜びます。そして人間のつくるあらゆる壁を打ちこぼち、敵意をあわれみに、憎しみを愛に、争いを平和にかえてくださるあなたの力に信頼して生きていきたいと願います。

「主の霊のおられるところに自由があります」(新約聖書コリントの信徒への手紙二3:17)

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勉強

先月中学に入学した長男は、やっと勉強の大切さをさとったのか、ある家庭学習の教材を申し込みました。そこは紙の教材のみならずコンピューターでも勉強を教えてくれるというので、息子はさっそくそのソフトを私のパソコンにインストールしました(我が家にはパソコンが一台しかないので)。するとその日から、私がパソコンを立ち上げるたびに、デスクトップの右下に時計の顔をしたへんな生き物が顔を出すようになりました。

このところ息子はさぼっているようで、「時計の顔」は最近来てくれないじゃない、とさみしそうに語りかけてきます。君をさみしがらせているのは私ではないのに、と思います。たまには会ってやれ、とも思います。

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木の椅子が

木の椅子がひとつ置かれた床は、四つのポイントで重みを感じています。人が腰かけた瞬間、その重みは痛みに変わるのかもしれません。

大きな鉢植えがひとつ置かれたテーブルは、もう長いこと半端でない重量に耐えています。けれども声もたてずに忍耐しているので、だれもそのことに気づきません。

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のぞみ(3)

特急か各駅停車か。ルカによる福音書10章の「よきサマリア人」は、各駅停車の生き方をしたのだと思います。

「(特急に)抜かれた普通電車よ/彼が見落した駅と町を/ひとつひとつ拾いながら/ゆっくり ゆたかに/ながく 生きよ」(杉山平一「各駅停車」(部分))

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のぞみ(2)

ついでにひとつ(どうでもよいことですが)。神戸での仕事の帰りには、よく新大阪始発ののぞみに乗ります。乗り込む時はがらがらに空いていることが多いので、窓際の席に腰かけます。そうすると、新大阪か京都から乗って来られた方が、隣りの席に座られます。それはよいのですが、私の降りる名古屋に近づくタイミングで、なぜか決まってお弁当を広げられるのです。

私は小心者なので、勇気をふるって「降りるのですが」と伝えます。そうするとその方はお箸をとめ、開いたお弁当を脇に置き、お茶も脇に置き、上着(冬場ならコートも)もどけ、立ち上がって通してくださいます。三人掛けの席で、二人連れのお客さんが同時にお弁当を広げた、という場合には、よりたいへんです。

今回は空いていたので、心安らかでした。

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のぞみ(1)

昨日、今日と神戸に出かけていました。行きも帰りも車内はがらがらに空いていました。時間帯もあったでしょうが、あるいは新型インフルエンザの影響もあったのでしょうか。

混んでいても、お客がまばらでも、乗務員のお姉さんは(車両の出口で)しっかり立ち止まり、にっこり笑い、ていねいにおじぎをして去って行かれます。

詩人の辻征夫氏が、読書をしていて乗り過ごしたことはあるが、水戸黄門のことを考えていて乗り越したのは初めてであると書いておられた気がしますが、私も車内ではよく考えごとをします(のぞみ号を乗り越してはたいへんですが)。考えごとの内容によっては、降りる駅になってわれに返ると、目の前の座席のまるい手すりが僧侶の後頭部に見えたりもします。

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『時が立つ』

おふたりの詩人方の素敵な往復書簡集のタイトルです。誤植ではありません。「経つ」ではなく「立つ」なのです。

ひとりの方がこのように語っておられます(書簡の日付は2001年11月4日)-9月11日以来、自分の中に一本の木を、まっすぐに立つ「時」の樹木をもった。そしてその木の下に今もずっとすわり続けている。はじめはただただ出来事の恐ろしさにおののいていたが、やがてこの「時」の樹木を定点として思考していこうと決めた。時が経つほどに希望を失っていく悲惨な世界の中で、それに抵抗できる「より強く深い考え方」を得るために。

豊かな感受性と強靭な思考力のもとでは、時は「経つ」もの、流れていくものではなく、「立つ」ものなのですね。歴史を生きることは決して受け身ではないのだと思わされます。

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「わたし」と「あなた」

ある文章に、二人称の関係の回復こそ現代の課題であると述べられていました。

一人称(「わたし」)を突き詰めるなら、際限なく独り言が続くということになるでしょうし、三人称(「彼」とか「これ」)を突き詰めたなら、モノあるいは観念の方向に向かうのかもしれません。

「どうしたら どこへ行ったら

あなたに逢えますか」

「あなた」を探し求めることができることそのものが、幸いなことではないでしょうか。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(旧約聖書詩篇42:2)

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「あなた」とは

教会に掲げてある星野富弘さんのカレンダー。

一緒にみことばを学んでいるひとりの方が、5月の詩を手帳に書き抜いて、見せてくださいました。

「遠くて見えないのですか

近すぎて見えないのですか

小さくて見えないのですか

大きすぎて見えないのですか

どうしたら どこへ行ったら

あなたに逢えますか」

「あなた」とはだれなのでしょう。

やはり神さまのことではないか、と私は思いました。

 

 

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ブログを始めます

日本キリスト改革派名古屋教会牧師の木下裕也です。肩の力を抜いて、自由気ままに書いていきたいと思っています。

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