祈り

祈り。
それは、自力に頼ることをやめること。
この世(と自分)の知恵と賢さを捨てること。

神さまにゆだねること。
神さまに期待すること。
神さまの知恵と力に信頼すること。
神さまに背負っていただくこと。
神さまにしていただくこと。

そこから何かが始まります。
そこから、新しい道が開かれます。

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以前(ずいぶん前ですが)書いた詩です。


   顔
   

忘れ物を取りに行くようにして
くたびれた小さな漁船は沖へ出ていき
(そのエンジンはひもを引っ張るのだ)
数分もしないうちにまた戻ってきた

待ち受けていた漁師たちが
四角い網を持ち上げて さかさにすると
夥しい数の小魚が
叩きつける黒い雨のように
あるいは土砂のように降ってきた
(土砂降りはしばらく続いた)

戻り際
突堤のコンクリートに
靴底に潰されたまま干からびている
一匹の小魚の骸を見た

来る途中
暇にまかせて車内で読んだ雑誌の中で
学者たちが議論していた
〈この事件で虐殺された者は四十万
いや 二十万というところか
私の見積もりでは それもいくらか多すぎると思う
国側の申し立ては参考程度として…〉

ひとしきり降り続いた魚たちの顔を
私は一匹も見分けることができなかった

しかし あの一匹の顔は
はっきり見えた


「個」が見えているかどうか。
(「個」の中には、もちろん自分自身も含まれます。)

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内なる敵

昨日夕飯のおりに、子供たちが中島みゆきのことで盛り上がっていました。長男は「傾斜」、娘は「ファイト!」が好きなのだそうです。へえー、と思いました。実は私も学生の頃、ギターを鳴らしつつ歌っておりました…。

「ファイト!」の中に、駅の階段で子供が突き飛ばされたのを見たのに助けもせず、怖くて逃げた、わたしの敵はわたしです、という歌詞があったと思います。内なる敵ということをうたっているのだと思います.

(1日のブログにも、「内なる敵」とのたたかいについて触れたのですが)内村鑑三も、内なる敵について語っています。日露非戦論にふれた論説の中で、あらゆる戦争の背後に人間のエゴイズムがあることを指摘し、戦争はたんに政治問題、国際問題にとどまるものではないと語っています。「敵は国外に於て在らず、我儕の中に在る」

内村鑑三と中島みゆき。無理やり結びつけようとは思いませんが、おもしろい。

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集中

キリストは真理なる方です(ヨハネ14:6)。
そうであれば、キリストを知ることに集中することが、この複雑かつ困難な時代と社会を生き抜く力となるはずです。

キリストに集中するなら、世界と人間を見る視野がひろがります。過度に自分にこりかたまる不自由からときはなたれます。

小細工はいらない。今年もキリストを掘り下げること、キリストを知ることに集中したい。そのように思います。

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最初の贈り物

中村不二夫さんから詩集『House』をいただきました。荒れ野を行くような人生の試練にも耐える、強靭な、あたたかい、美しい言葉。新年最初のすばらしい贈り物です。

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絶対化と相対化

昨年末、NHKEテレの番組「こころの時代」を見ました。東海林勤牧師と徐京植さんとの興味深い対話でした。

徐京植さんのお兄さんの俊植さんは、獄中での読書をとおしてキリスト教における人間の相対化(聖書の神は絶対の存在なので、この神のもとではあらゆるこの世の価値観からときはなたれ、世を相対化して見ることができる)への理解を深められたそうです。このことを東海林先生が語られたとき、京植さんは質問されました。逆の場合、すなわち神の名のもとに人間が自己を絶対化することもあるのではないですか、と。

東海林先生は、それを免れるためには感動することであるという趣旨の答えを返されました。苦しみの中でたたかいを続けている人々と出会い、その言葉や人格に触れて感動すること。これが大切であると。
見事な答えだと思いました。

同時に、京植さんの問いも実に深く、鋭いものだと思いました。本来は絶対者なる神との出会いによって、人は自由にされ、解放されるはずですが、確かに逆のことが起こります。神の名によって自分のありかたを絶対化、もしくは正当化することです。これはナチス・ドイツにおいても起こりました。戦前の国家神道においても起こりました。
どうして起こるのか。なお自己のうちに残る罪のゆえです。この内なる罪、聖なる名による自己のエゴイズムの正当化の罪とも、わたしたちはたたかわなければならないのです。霊のたたかいです。

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新しい年に

 新しい年となりました。昨年末からずっと考えさせられているのは、キリスト者のたたかいということについてです。政治状況もあります。昨年末から教会の祈祷会で、日露非戦論をとなえた内村鑑三について学んでいることもあります。クリスマスに、イザヤ書11章から終末の平和についてのみ言葉を聞いたこともあります。 

 キリスト者のたたかいは、この世のたたかいとはことなります。霊的なたたかいです。そしてキリスト者の敵は、もちろん外にも存在しますが、まず自分の内に存在します。内なる罪です。このたたかいに勝利するために、神の助けを祈り求めます。

 キリスト者のたたかいかたは、この世的なものではありません(だから、知恵が必要です)。では、それはどのようなかたちをとるのか。そのことをこの一年思いめぐらせたい。そしてみ言葉に従って、霊のたたかいを担いたい。そう思わされています。

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 節電対策になるかと、「着る毛布」を買い求めました(特価で)。確かに暖かい。しかし着ていると、何か熊のようになります。私は今、一日のある時間帯には熊の風体をしています。

 

 見たい、という方は深夜か早朝にお訪ねください。

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ヤコブ

 日曜の午後の礼拝では、創世記を学んでいます。35章まできました。ヤコブの生涯をたどっているところです。

 あらためて思うのは、ヤコブがいかに計算高く、世知にたけた人であったかということです。「ヤコブ」とは他人のかかとをつかんで引き下ろす人、という意味です。彼はまさに自分のことしか考えなかった人でした。

 そのヤコブが「イスラエル」、すなわち神は勝利するという名に変えられました。人を蹴落とすことだけを考えていた人が、神の恵みに生かされて生きる人に変えられたのです。

 そこには、彼自身の能力や努力や修行といったものはみじんもありませんでした。神はご自身の祝福を担う者として、彼を選んでくださいました。彼の背に担われた神の祝福そのものが、彼を変えてくださったのです。

 それを知るとき、クリスマスは突発的に到来したのではないということがよくわかります。ヤコブはクリスマスの喜びを先取りしていたのです。
 そしてわたしたちは、ヤコブ(や旧約の時代の信仰者たち)よりも鮮やかに、神の祝福を知らされています。イエス・キリストによって。

 

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授業参観

 朝食時の、妻と次男(中2)との会話です。授業参観に行くと、とても静かなクラスもあればさほどでもないクラスもあるとの妻の発言に-

次男:「お母さんだって、手を振ってきたじゃないか」
妻: 「昔は手を振り返してくれたのに、最近は冷たいわね」

 どっちもどっちだと思います。

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